この一週間で読んだ本

ここのところバタバタしていて、日々の読書記録がままなりませんでした。
なので今日はまとめて記しておきます。

-ガセネッタとシモネッタ
ロシア語通訳をされていた方ならではの着眼点が新鮮でした。
米原さんは『誤訳と嘘、プロセスは同じ』と分析しています。


 通訳をする際に、インプットを間違えていれば、つまり聞き間違いをしてしまうと、結果的に訳も誤訳となってしまいます。
たとえば、『大根』と聞いて、これに対応する言葉がでてこないのであれば、『白い根菜』と言い換えることで、本質的な間違いにはならないけれど、『大根』を『男根』(!)と聞き間違えてしまえば、誤訳となる。そしてやっかいなことに、自分で聞き間違えたと気付かない。
 一方、嘘についてだが、世の中を見渡すと、うそをついている自覚なしに、つまりインプット段階で無自覚に虚構をつくりあげて、記憶のひだにしまいこんでいることがある。そうすれば、アウトプットするとき、うそをついている自覚はないだろう。


 このように認知そのものの歪みが強かったり、頻繁に生じると、生きづらいだろうな・・・

ガセネッタ&(と)シモネッタ (文春文庫)

ガセネッタ&(と)シモネッタ (文春文庫)

-縁は異なもの
 “生と死は連続している”とはよく聞くフレーズだが、一体、個人としてはどのように感じ取れるものなのか私にはわかりにくい。しかしこれを読んで、少しだけだが触れられそうな気がする。


 白洲正子さんは晩年、亡くなった人ばかりが登場する夢をよく見たそうだ。
内容はとても現実的、日常的で、先立たれたご主人が出てきては、『今日の晩御飯なにしようか』など
目が覚めたときに気味が悪いことはまったくないものだった。
 白洲さんはご自身の夢の体験から、あちらがわの世界の人が呼びにきているというというよりもむしろ、自分ももうそこにいる感覚を得ていると仰る。
 また、白洲さんは一度、あの世に行きかけたとき、臨終を告げようとした医者に『大丈夫、大丈夫』と話しかけたのだが、このとき夢の中では、白洲さんは山道の尾根のようなところを桜吹雪の中歩いており、一人で歩いていけるから『大丈夫』と言ったのであった。
 
 私はこれを読んで、自分の生と死もこのように緩やかに繋がるグラデーションとして実感していられれば、死は恐いことではないかもしれないと思えた。
 ということは、いつも自分は生きていることを意識することがとても大切になるだろう。自分の生を大切に扱うのか、ぞんざいにするのかで、生死のグラデーションの趣はかわってくるはずだ。白洲さんの生き方だからこそ、こうでありたいなと思わすこのような死に方を作ったのだ。

 共著者の河合隼雄先生が白洲さんの夢を思い浮かべて歌った和歌がある。
『つひに行く 道とはかねて 聞きしかど きのうけふとは思はざりしを 聞きしにまさるこの花道ぞ』

自分の行く道は花道となるか、いばらの道となるかはその人によるのだろう。

縁は異なもの (知恵の森文庫)

縁は異なもの (知恵の森文庫)

そのほかの本
霊をよぶ人たち (ちくま少年図書館 96 社会の本)
この世でいちばん大事な「カネ」の話 (よりみちパン!セ)